2011年11月30日水曜日

雑感

山形などの東北や熊本、鹿児島などの九州を回ってきたが、地方には自由がない。権力者が正論を押しつけ、文化的な土壌が育まれない構造が出来上がってしまっている。だからこそ若者は不自由な地元に嫌気をさし、都市へと向かう。いまだ地主や名家の子孫が実権を手放そうとせず、深夜に街をうろつくことすら許されない窮屈な街で幸福を手にすることができるのは、ごく一部の人間だけだ。

多くの人間は生きるに値しないゴミのような存在だと思うが、「お前等はゴミだから、だまって俺たちの言うことを聴け」という政治家、役人、官僚の声には我慢ならない。なぜなら、正論を押し付ける彼らもまた我々同様ゴミだからだ。

全ての人間が自由な社会とはどのような社会か?性犯罪が横行し、女性は街を歩くこともできない社会だろうか?持て余したリビドーは音楽活動やスポーツで発散するのが健全だと思うが、それは国家によって強制させられることだろうか?

答えのない答えを探して私たちが悪戦苦闘している間に、権力を握る一部の人間だけが幸福を手にしている。今の日本は、江戸時代と何ら変わらない身分制度に基づいた階級社会なのだ。今日も山形のうら寂れた工場で、未来に希望を見いだせない若者が奴隷のように退屈な労働に従事している。政治家は彼らを虫ケラ同然のように扱い、1200万円のチャーター便で上海に飛ぶ。

なぜ進歩しようとしないのか?過去の優れた小説や映画には権力を握った人間の愚かさが描かれているものも多々あるが、今の国家制度はピラミッドを建てるために多くの労働者をコキ使った数千年前のエジプトと何ら変わりはない。これは、過去の優れた芸術作品の存在価値を否定することを意味する。

ダヴィンチの絵画を、ミケランジェロの彫刻の上を豚や鹿が這いずり回り、糞塗れにしているというのが今の永田町の実態だ。政治家は、芸術を「批評」などしなくていい。過去の医大な芸術を前に己の卑小さを知り、愚かさを恥じればいいのだ。

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